コメント
No title
杉下茂の引退と同時に本塁打のパークファクターがはねあがっているのが興味深いですね。当時は特定の投手が偏って投げる時代だったので杉下の被本塁打の少なさがパークファクターにも影響しているのでしょうか。
Re: No title
いえろーさん、コメントありがとうございます!
返信が遅れまして申し訳ございません。
当時は1人の投手がチームイニングの1/3を投げることもあったので、
特定の投手の特性がPFに強く反映されてしまうケースは確かに起こりうるかもしれませんね。
ただ、1957年と1958年の杉下は中日球場の被本塁打(被HR%)がビジターの半分程度でした。
これはほぼPF通りの数値なので、杉下を除外してPFを計算しても結果はほぼ変わらないと思われます。
PFが改修なしでいきなり倍になったり半分になったりするのは使用球の変更がだいたい原因なので、
個人的には使用球の変更が原因ではとは思っています。もしかすると監督になった杉下の手による変更かもしれません。
よく考えると1959年といえば伊勢湾台風が直撃した年なんですけど、
意外と多くの試合数が消化されていて驚きました。調べたら1週間そこらで復旧させたようですね。
返信が遅れまして申し訳ございません。
当時は1人の投手がチームイニングの1/3を投げることもあったので、
特定の投手の特性がPFに強く反映されてしまうケースは確かに起こりうるかもしれませんね。
ただ、1957年と1958年の杉下は中日球場の被本塁打(被HR%)がビジターの半分程度でした。
これはほぼPF通りの数値なので、杉下を除外してPFを計算しても結果はほぼ変わらないと思われます。
PFが改修なしでいきなり倍になったり半分になったりするのは使用球の変更がだいたい原因なので、
個人的には使用球の変更が原因ではとは思っています。もしかすると監督になった杉下の手による変更かもしれません。
よく考えると1959年といえば伊勢湾台風が直撃した年なんですけど、
意外と多くの試合数が消化されていて驚きました。調べたら1週間そこらで復旧させたようですね。
No title
お忙しい中ご返信ありがとうございます。杉下という大投手がいなくなったので打撃優位にしようとしたのかもしれませんね。杉浦、皆川の衰えから極端に飛ばないボールを導入した野村とは逆の動きで面白いです。
戦後復興もままならない時期から再開しただけあって着の身着のままでも再開しようとした時代だったのかもしれませんね。
戦後復興もままならない時期から再開しただけあって着の身着のままでも再開しようとした時代だったのかもしれませんね。
Re: No title
いえろーさん、コメントありがとうございます!
返信が大変遅くなりまして申し訳ございません。
言われてみれば南海とは逆の推移となっていますね。
復旧もおそらく完璧には程遠い状態だったのでしょうが、
それでも許されたという点でおおらかな時代だったのでしょうね。
返信が大変遅くなりまして申し訳ございません。
言われてみれば南海とは逆の推移となっていますね。
復旧もおそらく完璧には程遠い状態だったのでしょうが、
それでも許されたという点でおおらかな時代だったのでしょうね。